LOGIN夕暮れ時、ようやく薪割りを終えたジェニファーは屋敷の中に入ることを許された。
「全く、薪割りに何時まで時間を掛ければ気が済むのよ! さっさと夕食の準備をしなさい!」
アンはイライラしながら厨房に立つジェニファーを怒鳴りつけた。
「は、はい……でも、叔母様。私の手……豆が潰れて血が出ていますけど。こんな手で料理してもいいのですか?」
ジェニファー両手の平を叔母に見せた。少女の小さな手の平は幾つもの豆が出来て潰れて血がにじみ出ている。
「うっ! な、何なのよ! その手は! 斧の握り方が悪いからそんなことになったんじゃないの!? それとも家事をしたくなくてわざと怪我をしたのかしら?」
「そんなことするはずありません!」
あまりのアンの言い方に、ジェニファーの目に涙が浮かぶ。
そのとき。
――コンコン
屋敷にノックの音が響いた。
「全く、誰かしら? こんな忙しいときに……ジェニファー! 早く応対しなさい!」
アンは来客の応対までジェニファーにさせていた。
貴族生活に憧れていた彼女は使用人がするような仕事は一切する気は無かったのだ。「はい……」
小さく呟くと、ジェニファーは扉へ向かった。
「どちらさまでしょうか?」
『私よ、ケイトよ』
「え? ケイトおばさん?」
扉越しに聞こえた声に驚き、ジェニファーは扉を開けた。
すると、鍋とバスケットを手にしたケイトが現れた。「ケイトおばさん……」
「ジェニファー。可哀想に……今日、薪割りをさせられていたでしょう? 食事の準備が出来ないのではないかと思って鍋にシチューを作ってきたの。パンもあるから皆で食べるといいわ」
「ありがとうございます、ケイトおばさん」
ジェニファーが鍋を受け取ろうとしたとき、ケイトは手の平の豆に気づいた。
「どうしたの!? ジェニファー! ひどい怪我をしているじゃない!?」
「あ……これは……」
両手を後ろに隠しても、もう遅かった。
「薪割りのせいで、豆が出来たのね……? その手じゃ何も持てないでしょう。いいわ、私が運んであげる」
ケイトは屋敷の中に入ってきた。
「え? ケイトおばさん?」
ジェニファーは慌てた。何故なら叔母はケイトが屋敷に上がり込んでくるのを良く思っていなかったからだ。
「ジェニファー! 遅いじゃない! 一体何を……あら?」
厨房に戻ってきたジェニファーを怒鳴りつけた叔母は、ケイトの姿を見て眉を顰めた。
「あら? 誰かと思えば、またあんたなの? ここは貴族の家よ? 平民が図々しく上がってこれる場所じゃないのだけど?」
アンはケイトに散々お世話になっているにも関わらず、見下した横柄な口の聞き方をする。
しかし、ケイトも負けていない。「こんにちは、夫人。ですが、この屋敷の持ち主はジェニファーですよ。彼女の許可は貰っています。居候のあなたにどうこう言われる筋合いはありませんけど?」
「な、なんですって……!? 居候ですって!?」
居候……それは一番言われたくない言葉だった。
プライドの高い彼女は、ブルック家に上がり込んできた自分たちを居候とは認めたくなかったのだ。「ええ、そうです。居候を居候と呼んで何が悪いのです? さぁ、ジェニファー。この鍋を火にかけて温めるだけで食べられるからね? パンはあなたの好きな白パン焼いて持ってきたわよ?」
ケイトは怒りで震えるアンを無視し、ジェニファーに笑顔で話しかける。
「ちょっと! あんた! 私達にそんな貧相な食事を持ってくるなんて失礼……」
しかし、ケイトは最後まで言わせない。
「別に奥様食べさせるために持ってきたわけではありません。ジェニファーと、この料理を食べたい人たちだけに差し入れたのですから」
そこへ、ダンとサーシャが厨房へ現れた――
――パタン扉が閉じられると、早速シドはニコラスに訴えた。「ニコラス様、本気でジェニファー様を1人で出掛けさせてよろしいのですか?」「本人が1人で行きたいと言うのだから仕方ないだろう?」「ですが、万一のことがあったらどうなさるのですか?」「別に危険な事は無いだろう? 『ボニート』は比較的治安が良い場所じゃないか」「それでもです! 若い女性を1人で歩かせるのは危険だと思わないのですか? 仮にもジェニファー様はニコラス様の妻なのですよね?」少しも引こうとしないシドを前に、ニコラスはため息をついた。「分かった……そこまで言うなら、シド。ジェニファーの護衛を頼む。ただし、彼女に気付かれないようにな」「はい、お任せください」シドは満足げに頷いた――**** 外出の許可を貰ったジェニファーは部屋に戻ると、早速出掛ける準備を始めた。「ジェニファー様、ジョナサン様のお世話ならどうぞ私にお任せ下さい」メイドのココが笑顔でジョナサンを抱いている。「あ! 私だって、ちゃんとお世話できますから!」ポリーが負けじと訴える。「あーら? この間、泣いているジョナサン様に困り果ててジェニファー様に助けを求めに行ったのはどこの誰かしら?」「あ、あれはたまたまです! その後は泣かれていませんから!」ココとポリーが対立しそうになるのをジェニファーが宥めた。「落ち着いてちょうだい。私は、2人のことを信頼しているわ。だから、どうかジョナサンをお願いね。なるべく早く帰って来るようにはするから」「大丈夫ですよ、ジョナサン様のことでしたら私たちが2人でしっかりお世話いたしますので、どうぞジェニファー様は時間を気にせずにごゆっくりお出かけください」ポリーの言葉にジェニファーは嬉しそうに笑う。「本当? そう言って貰えると助かるわ。でも、なるべく早く帰って来るようにはするから。それじゃ行ってくるわ。ジョナサン、愛しているわ」頬にキスすると、ジョナサンは「キャッキャッ」と嬉しそうに笑う。ジェニファーは無邪気に笑うジョナサンの頭をそっと撫でると、3人に見送らて部屋を後にした――**** ジェニファーが城の門を出ると、庭木の影からシドが姿を現した。「ジェニファー様……後をつけるような真似をして申し訳ございません」シドは小さな声で謝罪すると、距離を空けてジェニファーの
朝食後――ココにジョナサンの世話を頼んだジェニファーは手早く入浴を済ませ、身支度を整えるとニコラスの元へ向かった。「確か、ここがニコラスの書斎だったかしら?」使用人にあらかじめ、ニコラスの書斎は聞いていた。そこでジェニファーは一度深呼吸すると、扉をノックした。—―コンコンすると扉が開かれ、シドが現れた。「まぁ、シド!」まさかシドがいるとは思わず、ジェニファーは目を見開いた。「ジェニファー様ではありませんか。もしかしてニコラス様に会いにいらしたのですか?」「そうなの。シドがいると言う事は、この部屋が書斎であっているのね? お話があって、訪ねてみたのだけど……今、大丈夫かしら?」「ニコラス様に聞いてみますので、お待ちください」「ええ。お願い」シドはジェニファーを扉の前で待たせると、ニコラスの元へ戻った。「ニコラス様、ジェニファー様がいらしたのですが」「え? ジェニファーが? 中に入るように伝えてくれ」仕事をしていたニコラスが顔を上げる。「分かりました」**シドに招き入れられたジェニファーは丁寧にニコラスに挨拶をした。「ニコラス様。お仕事でお忙しい中、時間を取っていただきありがとうございます」「……ああ。それで、何の用だ?」ジェニファーに対し、色々複雑な気持ちを抱きながら頷くニコラス。「シドから聞きました。こちらに滞在する期間を1週間程延ばして下さるそうですね? ありがとうございます」「別に君の為に滞在期間を延長する訳じゃないから、お礼は別に言わなくてもいい」「!」ニコラスの何処か冷たい物言いに、シドは肩をピクリと動かした。(まただ……! 何故ニコラス様はこんなに冷たい態度をジェニファー様に取るのだ?)シドは何故ニコラスがジェニファーに冷たい態度を取っているのか理由を知らない。何故ならジェニーがいた頃、彼女はシドの存在を嫌がって遠ざけていたからだ。夜な夜な、寝言でジェニファーの名を口にして謝罪していたことなど知る由も無い。けれどジェニファーは左程気にも留めない様子で、言葉を続けた。「そうだったのですね。それで今度はお願いしたいことがあるのですが……」「お願い? 何だ?」「はい。あの……本日外出してきてもよろしいでしょうか? 少し町を見て回りたいのですけど……」何処か躊躇いがちに尋ねるジェニファー。「
――7時 部屋に戻ったジェニファーは、ジョナサンを抱いてミルクを与えていた。「フフ、ジョナサン。ミルクおいしい?」哺乳瓶を咥えて、小さな喉をコクンコクンと鳴らして飲むジョナサンを愛し気に見つめる。「ジェニファー様。ミルクなら私があげますので、シャワーを浴びてらしたらいかがですか?」シーツの交換に来ていたココが声をかけてきた。「大丈夫よ、もうぐ飲み終わるから。それにしても、ニコラス様はいつの間にかお部屋に戻ってしまったのね」ジェニファーはニコラスが眠っていたソファを見つめる。「ええ、そのようですね。でも目が覚めた時、お部屋にご主人様がいらしたのを見た時は、さぞかし驚かれたのではありませんか?」「ええ、それは驚いたわ。あ、ミルクを飲み終えたのね?」気付けば、ジョナサンは空になった哺乳瓶を咥えている。ジェニファーは哺乳瓶を外すと、ジョナサンは名残惜しそうに手を伸ばした。「マンマ、マンマ」「あらあら、まだジョナサン様はお腹が空いてらっしゃるようですね。ジェニファー様、厨房に行って朝食を用意して貰うように伝えてきましょうか?」「ええ。お願いするわ」ジェニファーが頷いたその時、コンコンと部屋の扉がノックされた。「あら? 誰でしょう?」ココが扉を開けると、目の前にシドが立っている。「まぁ、シドさん!」「ジェニファー様はいるか?」「はい、おりますけど……」するとジェニファーがシドに声をかけた。「シド、どうぞ中に入って。ココは厨房に行って貰える?」「はい、では行ってきます」ジェニファーに頼まれたココは厨房へ向かい、入れ替わりにシドが部屋に入って来た。「おはようございます、ジェニファー様」「おはようシド。丁度良かったわ。あなたに会いたいと思っていたところだったの」ジョナサンを抱いたジェニファーは笑顔でシドを見つめる。「え? 俺にですか?」思わずシドの口元が綻びる。「ええ。昨夜のお礼を言いたかったの。食事に付き合って貰っただけじゃなく、眠ってしまった私をベッドまで運んでくれたのはシドなのよね?」「はい、そうです。突然眠ってしまわれたので驚きました。それで、失礼だとは思ったのですがお部屋まで運ばせて頂きました。ジェニファー様はお酒に弱いようですね」ジェニファーの前だと、寡黙なシドも饒舌になる。「そうね……お酒って殆ど飲みなれ
「ど、どうしてニコラスがこの部屋で寝ているの……? まさか、私が寝てしまったからジョナサンの様子を見る為に……!?」途端に罪悪感が込み上げてくる。(どうしよう……昨夜、慣れないワインを飲んでしまったせいだわ。ニコラスは仕事が終わって、この城に帰って来たばかりで疲れているはずなのに。私がうっかり寝てしまったからジョナサンの様子を見る為に、こんな寝心地の悪いソファで……)どうせ寝るならベッドで眠って欲しい。けれど、ニコラスを起こしてベッドで寝るように言う事も出来そうに無い。「どうすればいいのかしら……」ジェニファーはニコラスを見つめ……ふと思った。(そう言えば、大人になったニコラスを間近で見るのは今日が初めてかもしれないわ)大人になったニコラスは、すっかり美しい青年になっていた。そう、まさしく絵本に登場する王子様のように。「ニコラスが迎えに現れた時……さぞかしジェニーは嬉しかったでしょうね……夢は、いつか王子様が自分を迎えに来てくれることだって良く私に話してくれたもの……だから手紙を貰ったとき、2人の幸せを祈っていたのに……。こんなに早くにジェニーは……」その時――「マァマ~? マァマー」ベビーベッドからジョナサンの声が聞こえてきた。「あ! ジョナサンが起きたのね?」我に返ったジェニファーはニコラスから離れると、急いでジョナサンの元へ向かった。「おはよう、ジョナサン」ベビーベッドの上では既にジョナサンは起き上がってお座りしていた。「ア~マァマ~?」ジェニファーを見ると、ジョナサンは笑顔になって腕を伸ばして抱っこをせがんでくる。「はいはい。抱っこね?」ベビーベッドから抱き上げると、途端にジョナサンはジェニファーにすり寄って来た。「フフフ……本当に、何て可愛いのかしら。自分の子供じゃなくても、こんなに可愛いのだから我が子だったら……」そこでジェニファーは言葉を切る。(自分の子供だったらもっと可愛いなんて思ったら駄目だわ。私の役目はニコラスから託されたジョナサンをしっかり育てることなのだから。成長して、いつか私の手から離れるその日まで……)「マンマ、マンマ」不意にジョナサンが食べ物を要求し始めた。「あら、もうジョナサンはお腹が空いたのね? それじゃまずは厨房に行ってミルクを貰ってきましょうか?」「アイ!」ジェニファーはジ
ニコラスはソファを並べて、ブランケットを用意するとテーブルの上に置かれたランプ以外の灯りを全て消した。今の時間は23時。ベビーベッドに眠るジョナサンの様子を見ると、気持ちよさげにぐっすり眠っている。「ジョナサン……」一月ぶりに同じ部屋で眠る我が子の頭をそっと撫でると、ニコラスは並べたソファの上に横たわってブランケットを掛けた。いくら夫婦とは言っても、2人は書類上だけの関係だからだ。同じベッドで眠るなど考えてもいない。「……おやすみ、ジェニー」今は亡き愛しい妻に「おやすみ」を告げると、ニコラスは目を閉じた――****――真夜中「……」ニコラスはウトウトしながらソファの上で何度目かの寝返りを打った時。「……さい……ごめんな‥‥…さい……」悲し気な、すすり泣きのような声が聞こえてきた。「!」ニコラスの脳は一気に覚醒した。「まさか……ジェニー……?」そんなはずは無いと思いつつ起き上がり、声はベッドから聞こえていることに気付いた。そっと近づいてみると、ジェニファーが眠っている。その寝姿はあまりにジェニーに似ている為、ドキリとた。「ジェニー……?」気付けば愛しい妻の名を口にし、ついニコラスはジェニファーに手を伸ばしかけ……。「……ごめんなさ……フォルクマン伯爵……許して下さ……」眠っているジェニファーの口からフォルクマン伯爵の名前が呟かれ、頬に涙が伝ってきた。「!」その様子に、ニコラスは我に返った。「そうだ……彼女は、ジェニーにそっくりだが……ジェニファーなんだ……。だが、何故君まで泣く? 君はジェニーを苦しめた張本人なのだろう……? 伯爵と一体何があったんだ……?」けれど、眠っているジェニファーは質問に答えることなど出来ない。「……ジェニー……」ポツリと呟くジェニファーの頬を再び涙が伝う。「こんな風に泣きながら眠るところまで……ジェニーにそっくりなんだな」ニコラスはハンカチを取り出すとジェニファーの涙をそっとぬぐい、再びソファに戻ると眠りに就くのだった――****――翌朝カーテンの隙間から差し込む太陽の光がジェニファーの顔を照らす。「う~ん……」眩しさのあまり窓から背を向けたとき、自分がベッドの上にいたことに気付いて目が覚めた。「え? ベッド……? 私、いつの間に……!」慌てて飛び起きると、昨日着た
眠りに就いたジェニファーを抱きかかえてジョナサンのいる部屋に戻って来たシド。部屋でジェニファーの帰りを待っていたポリーは当然の如く驚いた。「え!? シドさん、一体これはどういう状況ですか? 何故ジェニファー様を?」「ワインを飲んで酔って眠ってしまったんだ。だから抱きかかえて、お連れした。ただそれだけのことだからな」「ワインを飲んで」と言う部分を強調するシド。「そうだったのですね」ポリーは眠っているジェニファーの顔を覗き込んだ。「ジェニファー様を休ませてあげたいのだが……」「あ、それならこちらのベッドにお願いします」そこでシドはジェニファーをベッドまで運ぶと、そっと寝かせた。「それにしても珍しいこともあるものですね。ジェニファー様がワインを召し上がって酔われてしまうなんて、初めてのことではありませんか?」「……ああ、そうだな」『……ジェニー……ごめんなさい……』先程のジェニファーの姿がシドの脳裏を過る。「何かあったのでしょうか……。ジェニファー様は、あまりご自分の気持ちを語りませんから」「周りに迷惑をかけたくないと考えている方だからな……」ジェニファーならどんな迷惑だってかけられたって構わない。むしろ自分を頼って欲しいくらいだとシドは考えていた。「シドさん、後はもう大丈夫ですよ。私にお任せ下さい」ポリーはシドに声をかけた。「だが、ジョナサン様はどうする?」「ジョナサン様も、もうお休みになられたので大丈夫です。最近夜はまとめて眠れるようになってくれたので、夜に目が覚めることは無くなったのですよ?」「でも、それではポリーが休めないだろう」—―そのとき。「シド、ここにいたのか?」ニコラスが部屋に現れた。「あ! 旦那様にご挨拶申し上げます」慌てて会釈するポリー。「ニコラス様、何故こちらに?」(まさか、ジェニファー様に会いに来られたのだろうか?)「中々シドが戻って来ないから、ダイニングルームを覗いてみたのだが姿が見えなかったからな。それで、もしやと思ってここに来てみたのだが……ジェニファーはどうしたんだ?」ニコラスは辺りを見渡した。「ジェニファー様なら、ワインを飲まれてお休みになられました」「何だって? そうなのか?」シドの言葉に、ニコラスは驚いてベッドに近付いた。そこには目を閉じ、静かに眠りにつくジェニファ







